■添乗員はやめられない パート4副業その1

パート4 (副業)その1

パート4 (副業)その1

旅行社の仕事というのは頭を働かせれば働かせただけ実入りがある“実入りの無い人間は頭を使っていない証拠である。

それは今でも変わってはいないように思いますが、昔はメチャクチャでした。

私が旅行社に勤務していた時にはまだ海外旅行という仕事が始まったばかりでどこの会社も暗中模索で仕事をして失敗しながらルールを作り、不都合なことが有ればまた変えるという過渡期の時代でした。

ですから色々な所に穴があって、その穴を巧く利用すれば個人的な収入になったものでした。

会社もルールができるまでは暗黙の了解を与え見過ごしていました.

今、考えるとどうしてこんな事が許されたのかと苦笑する始末で、しかし実際にそれで家を建てた人はこの業界には沢山いるということを指摘しておきます。

私がやった副業の中で最も大がかりで面白かったのはマニラでやったナイトクラブでした。ナイトクラブというよりは観光置屋といった方が分かり易いでしょう。

その頃の状況について少々話しておかないと理解し難いと思います。

パート2でもちょっと触れましたが、私が最初にフィリピンに行ったのは1974年でした。その頃の状況はそこで触れた通りです。

その頃は日本も高度経済成長して海外旅行も盛んになり、インセンティブツアーと称して大会社では営業部門で優秀な営業マンを海外に無料で巡れて行ったのです。

その最も人気のあった観光地は台湾です。対日感情は悪くない、日本語を話せる人が

多い、食事は旨い、女は良いで。

しかしその台湾にも陰りが出てきました。それは台湾に行くということは「女買い」に行くの同義語で、家庭持ちの営業マンは奥さんに台湾行きを反対され、大会社としては中々ツアーを組み難い状況になったのです。

台湾に少し遅れること韓国ブームというのもあったのですが、これも前述のキリスト教系婦人団体から「伎生(キーセン)観光反対」という圧力を受け、空港などでは韓国行きのゲートにプラカードを持って押しかけるという事態が生じました。

これを受けて旅行社ではそのツアーの受け皿として新しいディスティネーションを

開発しなければならない羽目に立ち至りました。

そこで登場したのがフィリッピンなのです。

それまでは一般的にはフィリッピンという所がどんな所か分からなかったので、また片道4時間以内の飛行で3泊4日のツアーが組める観光地は他には無かったのです。

正確にはフィリッピンには第1次観光ブーム(1974年)と第2次観光ブーム(1976年)が有るのですが、当時は日本航空、フィリッピン航空の他にエジプト航空、パキスタン航空、ノースウエスト航空が飛んでいたのですが、各旅行社が一斉にフィリッピン観光に変えた為に座席が足りなくなって日本航空、フィリッピン航空が臨時便を出したですがそれでも足りず、エアーマニラ、スーターリングフィリッピン航空などというチャーター会社も参入して来ました。

ホテルも当然不足で町からかなり離れた所のホテルや多少治安が悪い所に立地するホテルでも旅行社の間で部屋の奪い合いが繰り広げられました。

ツアーの目的はズバリ「女買い」なのですが、女の数はフィリッピンの経済状態から相当数マニラにはいましたが、それでも不足するのでクラブのママは自分の田舎やら知り合いを頼って平日に田舎に「女集め」に向かいました。

どのように「女集めjをやるかと言うと、田舎にあるバーやカクテルラウンジのオーナーと掛け合って一人いくらという移籍料を支払ってそこで働いている女の子をマニラに連れてくるのです。